「象徴」と天海春香さん① ーマジカル・ニグロ批判との類似ー
過去に温めていた『「象徴」と天海春香さん』というテーマで、複数回記事を書いてみます。
ミリシタのまとめサイトで春香さんの記事を読んでいた私は、このような記事を見かけました。
『【ミリシタ】象徴じゃない春香を見たい!!』
※2019年の記事です。
数分あればコメントまで読める内容です。
まずは読んでいただけると嬉しいのですが、現状(ミリシタ)の春香さんの描かれ方について抜粋しますと、
・もうちょい調子に乗ったとこ見てみたいね
・春香さんはもはやアイドルという概念になりつつある
※いずれも記事抜粋より引用
などの意見を紹介するものです。
記事の論旨としてはタイトル通り「象徴ではない(≒別の切り口での)天海春香さんを見たい(だがしかしミリシタの春香さんはそうではない)」という言説(を紹介するもの)です。
アイドル・先輩・センターの象徴
良し悪しは置いておき、
『ミリシタのコミュで天海春香さんが出演するときには、「アイドル」「先輩」「センター」という符号を表す象徴として描かれる頻度が高い』
という点は、ミリシタをプレイされている方にはご納得していただけるのではないでしょうか。
「アイドル」といえば天海春香
「アイドル」の例として挙がる春香さん
「先輩」といえば天海春香
メインコミュ第1話で「先輩に話しを聞こう」となり、最初に話しを聞きに行くのが春香さん
「センター」といえば天海春香
センター公演を控えたまつりちゃんに、先生として呼ばれたのが春香さん
こうしたコミュへの登場には共通点があります。
・メインではないものの、
・センター公演を迎えるプリンセス属性のアイドルを助ける役や、見本となる存在として
春香さんは描かれています。
メタ的にいえば、シナリオライターからすると物語全体が破綻しないよう支える舞台装置として、(未来ちゃんや琴葉ちゃん、百合子ちゃんではなく)春香さんを使いやすいのだ、ということではないでしょうか。
現に、春香さん自身が成長したり、あるいは問題を抱えてしまうような描写は上記コミュにはありません。
また、春香さん自身のコミュや発言においても、「アイドル」「先輩」「センター」というようなイメージを、より強めるものが少なくありません。
「先輩として」
「みんなのお手本に」
「(私のではなく)私達の」
これらの象徴
ーーアイドル、先輩、センターーー
といった固定観念に立脚した描き方に対して、前述の記事では別の切り口で春香さんを描くよう求めている、という構造です。
この批判構造なのですが、大学で学んだ「ある言説」と類似するのではないか、と考えたことがあります。
マジカル・ニグロとの類似性
創作物における画一的な脇役描写への批判、としては、「映画に登場する黒人は、白人主人公を助ける脇役として都合よく描かれがちである」という言説「マジカル・ニグロ」が挙げられます。
なお「ニグロ」という極めてセンシティブな言葉を使っているのですが、構造に対する皮肉をこめた呼び方であり、かつある程度確立した表現なので私もこの表現を用います。ご了承ください。
ハリウッド映画においては、「病気を治したり道具を用意したりする不思議な力で白人主人公を助ける黒人脇役」というステレオタイプが存在して、それに対する批判が存在します。
「マジカル・ニグロ」、米ハリウッド映画に見る人種差別問題 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
AFPの記事によると、ウーピー・ゴールドバーグ氏やモーガン・フリーマン氏が例として挙げられています。
言わずもがな、人種差別問題を始めとするポリティカル・コレクトネスについて議論されているハリウッド業界と、少なくとも人種においてその議論の必要性がないミリシタとではスケール感や深刻さは異なります。
ただし、物語の配役や脚本にある種の固定観念ーーステレオタイプーーが組み込まれている状態、かつ、画一的な描き方に対する批判という意味では類似性があるのではないでしょうか。